Copyright(C) 2002.hai
ここだけのはなし2002 バックナンバー 睦月 / 如月 / 弥生卯月皐月水無月文月葉月長月     掲載された記事を許可なく転載することを禁じます


梅の花(天満宮) 撮影日 2002.02.11


梅の花(天満宮) 撮影日 2002.02.11

梅は、春告花。
早春のまだ冷たい空気のなかで、一輪、一輪と気のはやい春の花が咲き始める。蕾のふくらみが並ぶ横で、花びらが寒気にふるえている老梅の紅花。その芳しい香りは花以上に愛でられ、万葉集以来、日本人に最も愛されてきた花である。梅は松竹梅と嘉祥木のひとつとして、古くから日本人が開花を待ちこがれる花であり、長寿のシンボルでもある。寒さ厳しいこの季節に、蕾がほころび始め、雅やかな花を咲かせる。これぞ、凛とした趣があり、美しい。

 

    

季節のいたずら。
鼻をグズグズ、涙を流す。「あぁ、すっきりしたい」のだろうな。まわりでは花粉症で悩む人が目立ってきた。本人にとってはたまらなく辛い季節の到来である。いまの私は花粉症ではないが、かつて30年ほど前に季節の変わり目に苦しめられ、泣かされたことを思い出す。それも随分長かった。だからその辛さがよくわかる。さすが先端を行っていたんだと話すと、家族から「一年中、鼻かんでるやん」と胸に刺さることば。いたって鼻も健康なのに、そう映っているんだ。ちょっぴりショックである。同情しても、花粉症で悩む人をすっきりさせてあげられないけど、その辛さはほんまわかるよ。今日で、はや二月も終わり。長かった冬ごもりに終わりを告げ、一斉にすべての生命が芽吹く春の到来である。とはいっても、まだまだ寒い日が続きそうだ。みなさん、花粉注意報と風邪には気をつけようぜ。(2002.02.28)

熱き銀世界。
17日間にわたって、雪と氷の舞台に繰り広げられたソルトレークシティ冬季五輪。すべての競技が終了した。長野オリンピックに続き、メダルへの大きな期待は高まったが、各競技の世界は予想以上に厳しかった。結果 は銀と銅のメダルふたつ。惜しくも入賞で終わった選手も多かった。予選で敗退した選手やアクシデントで失格になった選手もいた。みんな一生懸命がんばった。ブラウン管を通 して、私たちに大きな夢と感動をくれた。ありがとう。熱き闘いのドラマに、いま一度、心から大きな拍手を贈りたい。お疲れさま。(2002.02.25)

DNAに蓄積されるアート。
「強烈な記憶は五感を通し、DNAに蓄積される。DNAに蓄積されるぐらいの作品でないとアートと呼べない」麻谷宏の表現行為より。きょう、麻谷宏さんの個展を見てきた。昨年の仁和寺で芸術祭典・京で大賞をとったことが記憶に新しいところだが、特別 にビデオでその製作過程をみせてもらった。作品を水平にするためにダンプ5台の砂利を運び込んだことや、下の遠い所からホースで水をはる心配や、水面 に金箔をひらたくきれいにはる苦労などが映像から伝わってきた。思いがけない水漏れや木々の葉っぱ、夕立などにスタッフ全員で一喜一憂したプロセスがそこにあった。
「物皆ナ一点二集マル」と題したこの作品は、五重塔の周りを光の水で覆いつくすことである。天空にのびる五重塔に注ぎ込まれる上空からの力を水平に成り立つ光の水で補え、空気の振動、風、雨、光などを受け止めながら、すべての動き、流れ、気を感じ取り、目に見えぬ ものを聴き、その必然的なエネルギーを具体化することによって自己想像し得ぬ 、具象をもその眼前に示してくれる。計り知れない、自然の力とのコラボレーションとしてのアースワークである。
今回、眺めのよいビル8階の会場にも金箔をはった光の水もミニサイズだが用意されている。横を叩いて水面 に波紋を起こすと別の魅力も。「あてがわれた会場の空間を、その場の状況に合わせたやり方で生き生きと甦らせる現代作家・麻谷宏さん。団塊の世代特有の醒めた美意識と、見る人に対する積極的な語りかけを忘れる血の通 いとか、この作家の表現行為を一人よがりに陥らせないのかもしれない」と京都新聞編集委員の藤慶之さんは述べている。会場に入ると、香を練ってつくられた作品から放つ香りが実に心地よい。手に触れて、体温を通 して感じる香のアート。まさに見る人の五感に伝わる個展。「麻谷宏展 コスモボウル〜物皆ナ一点二集マル〜」京都市右京区西大路通 高辻西南角JO-INビル8F アートフォーラムJARFO 正午〜19:00 2/28(木)まで。
 

いつも考え抜く訓練。
その話も、さっきの話も新聞に出ていたなぁと、人の話を聞きながら思うことがある。あ、それ、先日、テレビ番組で流れていたなぁと気づくことも。知った情報を受け売りしているのが悪いというのではない。それなりに面 白い情報がポンポン飛び出しても、目のまえで一瞬にして消えていく。やはり、その人の心身を通 って出てきた言葉がないと、伝わってこないものだ。と偉そうなことを書いた途端、思わず自分の話し方をチェックしてみると、まだまだお恥ずかしい。
世の中、情報は山ほどある。それを取り入れて賢くなったように錯覚したり、情報の意洪水におぼれたり、流されたりしていないか。収集した情報は力だ。だが、情報はあくまでも情報である。さまざまな情報を仕入れることは大事だが、消化しきれずに発信してしまうと恥をかくことになる。情報という知識をどう生かすかは、その人の知恵の領域にあるみたいだ。頭や心はどう感じているか。しっかり判断する心の働きが知恵だと思う。いつも考え抜く訓練がなければ、情報は自分のものにならない。 よく取材を通して、重みのある言葉、味のある言葉、すなわちその人の知恵の言葉をいただくことがある。プロと呼ばれる人たちは、それぞれ自分の仕事に打ち込み、さまざまな苦労と努力を重ねてきたからこそ生まれる言葉だ。さすが心に響く。私たちは情報に振り回されないためにも、よく咀嚼して自分のものにしなければとつくづく思う。情報と自分との関係をただしく判断するためにもね。(2002.02.22)

期待しているよ。
冬季オリンピックも佳境を迎え、雪景色のなかで元気に活躍する選手たちを見ていると、ブラウン管のこちら側までも体が熱くなってくる。今回のソルトレークシティ冬季五輪に出場している選手だれもが、出るだけで満足の五輪にはしたくない。いかにいい結果 を出すかであり、やはり目標はメダルだろう。世界のライバルを相手に、自分本来の力を出しきる難しさ。失敗は許されない緊張への闘い。いかにリラックスさえ、最善の自己ベストを残そうとする選手たち。日の丸が揚がらなくても、連日たくさんの感動を、ドラマを茶の間に届けてくれている。それにしても、スピードスケートの清水宏保選手の銀メダル、惜しかったよね。ショートトラックの寺尾悟選手は失格だなんて悔しいだろうな。なぜビデオによる確認が規則で認められていないのか。もう納得がいかん。フィギュアスケートの採点で不正も腹が立つ。この日を夢見て頑張ってきた選手たちは公平な判定だけを待っている。あたりまえの話だ。しかも、オリンピックだよね。審査員をはじめ関係者たちよ、もっとしっかりしろ!(2002.02.20)

観光都市が泣く!
京都新聞の夕刊をに、京都市の来年度の予算が発表されていた。よく見ると桜の季節や紅葉の季節のライトアップを止めると書かれている。ちょっと、待った!他に削るところがあるだろう。せっかく定着してきたというのに、電気代を惜しんでは観光客に来るなといっているのと同じ。世界の観光都市をうたっているのではなかったのか。地域の活性化を消し、暗闇にしてどうすんの?もっと地元の業者のことも考えてほしいものだ。(2002.02.19)

見て見ぬふり?
今朝の新聞を見てショックだった。淋しすぎる数字が現実を語っているのか。それは、喫煙などの不良行為をしている少年を見た場合、大人の半分(49.8%)が「見て見ぬ ふりをする」という。思わずおいおいと声を出してしまった。なんと「喫煙などであれば放っておく」(15.7%)を加えると、成人の三分の二(65.5%)が関わりたくないと考えていることが、内閣省が16日付で発表した「少年非行問題に関する世論調査」でわかった。注意するの項目では「学校などに連絡する」は7.0%、「警察官に連絡する」が4.9%。少年でも「見て見ぬ ふりをする」は40.5%。「非行を招く社会環境として何が問題か」では「テレフォンクラブ、ツーショットダイヤル、出会い系サイトなどの氾濫」(48.5%)、「携帯電話の普及」(44.2%)と電話による出会いの機会の増加が非行の温床とみている。少年では「少年でも簡単に刃物などを手に入れられる環境」(41.6%)がトップだった。大人たちの責任感はどこへ行ったのか。むかしテレビで、木枯らし紋次郎が「あっしには関わりございません」といっていたが、この数字はショックだ。無関心の広がりが浮き彫りになった、あまりにも淋しすぎるデータである。少年たちの不良行為を放っておいてどうするの。大人たちよ、正義感より責任感でしょ。時代や社会環境が変わっても、未来を担う子供たちに健全なる道を方向づけていかなければ、これからの日本はどうなるのだろうか?(2002.02.17)

ギャラはゲーマン?!
世の中には、さまざまな業種があって、そこだけで使われている業界用語というものがある。最近はテレビなどで舞台裏を見せての番組を作るため「へぇ〜そんな言葉を使うんだ」と教えられることも多い。私は学生時代にバイト先で業界用語(隠語)をはじめて知った。「食事に行く」とか「ちょっとトイレ」、「きょう彼女はお休み」「あのお客さんの様子がおかしい」など、いろいろあった。あくまでもデパートなど接客相手の商売などでは、客にわからないように店員が対応するためである。でも、デパート共通 でないことを思えば、やはりと隠語だったのだろう。要するに、客の気分を損なわないためのもので、当時、何も知らない私にとってはなんだか不思議な世界だった。 業界用語でよく知られているのでは、芸能界や放送業界では、昼を過ぎ、夕方でも「おはようございます」のあいさつが飛び交う。言葉を逆さにしたり、省略したものが多い。個人的に面 白いなと思ったのが音楽業界。知り合いの話によると、ギャラ(出演料)を数字の代わりに、C、D、E、F、G、A、B、オクターブ、ノインとドイツ語でいうらしい。1万円ならC(チェ)万、5万円ならG(ゲー)万というふうに。ちなみに食事と交通 費はアゴとアシとそのまんま。リハ(リハーサル)の最終はゲネプロ(ゲネラル・プローベ)と呼び、ゼンストは繰り返さず、すべてストレートに演奏するの意らしい。では業界用語とは何かといえば、何ひとつ調べずに述べてはいけないのだろうが、たぶん自分たちの仕事がスムーズにいくために生まれた略式的な言葉で、さらに仲間意識の確認のためにあるように思えてならないのだが。さてさて、その真髄は?(2002.02.15)

春告鳥と春告草。
鶯(うぐいす)はひと冬を越して春になるとさえずり始める。そのため、春告鳥(はるつげどり)と呼ばれる。普通 、鶯は秋に人里近くで「チャッ、チャッ」とやぶ鳴きし、春になると成鳥になり「ホーホケキョ」とさえずり始める。では、冬には鳴かないかといえば、実際に鳴くそうだ。特に暖冬など異常気象の年には冬にさえずることもあ、生物季節観測では不時現象というそうだ。昔から「梅に鶯」は切っても切れない縁で、似合うもののたとえだが、ちなみに「春告草」ほ梅。寒いなか、いち早く春の訪れを知らせる梅の花。その小枝で「ホーホケキョ」とさえずるのは配偶者を求めて鳴く恋歌とか。あちらこちらで梅が咲き、その香りは春の予感。いやいや余寒、まだまだ寒さが続きそうだ。ついでに春の語源は「発る」「張る」「晴る」など、万物の精気がみなぎる様子を表わしたものという。英語のSPRINGも「飛び立つ」「生じる」の意味があり、春のウキウキ気分は共通 のようだ。みなさん風邪をひかぬよう気をつけよう。(2002.02.13)

価値を付加する。
最近、仕事をしていて、ふと感じたことがある。ふだん何気なく出会う商品の新しいバージョンの登場なのに、それほど特性をもってないものが多すぎる。集めてきた10数社のカタログをめくりながら、いちばんの売りは何なのだとチェックしたところ、商品特性にそんなに差がない。もちろん外観のデザインや商品イメージは異なるのだが、まるで同じようなことばかり語っている。なぜなぜ?見ていても楽しくない。興味が湧かない。そそられない。なんか無表情な商品に感じてしまうぞ。もっと独自の手法で魅せて欲しいな。視点を変えて、新しい価値を見い出すことの難しさは、こちらも仕事柄よく知っている。商品に価値を付加することも私どもの仕事なのだが、好感をもってもらえない情報なんか誰も欲しがってない。ずばり「何をいうべきか」「いかに語るべきか」、そして「どんな夢を与えてくれるか」ではないだろうか。もっと元気よく、人を幸せにする、夢のある世界へ導くために。ことばで、あれこれ工夫する。まだ見ぬ 商品の広告表現に今宵も眠れそうにない。さ、もうひと頑張りや。(2002.02.12)

がんばれ!ニッポン!
遂に、世界中が注目するソルトレーク五輪(第19回冬季オリンピック・ソルトレークシティー大会/アメリカ・ユタ州)が開幕した。今回もノルディックスキー・ジャンプやフリースタイル・女子モーグル、スピードスケート、スケートショートトラックなどにメダルの期待がかかる。21世紀初のオリンピック、出場する選手はプレッシャーを感じているのだろうな。日本からは248人の選手と役員が参加。大会を楽しんで普段の力を発揮してほしいものだ。面 白いもので、急に愛国心があるかどうか知らないけれど、日本人の血が騒ぐのか、自分の国を応援している自分がいる。メダルや結果 より、選手一人ひとりの健闘を讃えたい。内なる炎を燃やせ、がんばれ!ニッポン!皆と歓びと感動をわかちあい、世界の心がひとつになることを願って。それにしても、あの長野大会から、もう4年が過ぎたんだ。こちらも、がんばらねば。(2002.02.009)

チョコレートといえば。
ことしもヴァレンタインの季節だ。デパ地価(デパートの地下つまり食品売り場)には、聖ヴァレンタイン用のチョコレートがあふれている。ところで、この聖ヴァレンタイン・デーの風習の始まりをご存知かな。女性が恋文を書いて男性に渡したといわれる古代ローマの牧神ルーパーカス祭に起源を求めるものもあれば、野山の鳥たちがこの時期につがいになるのにちなんで、若い恋人たちにとって愛の始まりを告げるロマンチックな日とする説などがある。フランス文学者の鹿島茂さんによると「いずれの説でもそれがなぜ聖ヴァレンタイン(ラテン語はヴァレンティヌス、フランス語ならヴァランタン)と結びついたかは明らかではない。なぜなら、聖ヴァレンタインについてはローマのキリスト教禁圧時代に皇帝の怒りをかって殉教した同名の聖人であること以外はわからないからである。おそらく、この時期におこなわれていた異教の習慣をキリスト教が吸収する過程で、聖人カレンダーの2月14日に割り振られていた聖ヴァレンタインが浮上し、これが恋人たちの守護聖人とされたにちがいない。それが19世紀アメリカで恋人にカードを贈る風習となり、日本でチョコレート贈呈の儀式に変形したのである」。ちょうど1年前の新聞記事だが、読んでなるほどそうだったのかと頷いてしまった。というのは仕事柄、このイベント化したセールの原稿を幾度も書いてきた者として昔からすっきりしなかっただけに、大きく頷いてしまったのである。ま、そんなことはともかく、恋人たちがカード=チョコレート=心のこもった品物?を送り、愛を伝え合う聖ヴァレンタイン・デー。いつの間にか家族や友達同士も加わって贈り物合戦?いくつになっても男性軍は歓ぶ。単純がいいのだ。1ヵ月後のことなど頭にない。お返しの品選びに悩む自分の姿を思い浮かべる奴なんかいるものか。そしてホワイト・デーが近づくと、倍返しとかなんとかで懐を傷め「白紙にしてよ」と心のなかで叫ぶのかもしれない。義理なんてヤクザの世界みたいで怖いコワイ。みなさん明るく楽しんでお幸せに。(2002.02.08)

ビタミンたっぷりブロッコリー。
今夜も、なぜか引き続き野菜の話。ゆで上げれば、淡泊な味わいのブロッコリーは、キャベツの変種でカリフラワーの仲間。本場のイタリア語で「ブロッコ」から来ており、腕木、枝という意味をもつ。一度、口にすると忘れがたい風味に、また食べたくなる野菜だ。淡泊な味わいは和風料理にも向き。青くゆで上げれば、そのままおひたしや辛子あえ、椀ダネに。もちろんサラダや、炒め物、グラタンなどにもよく合う。 ビタミンCの供給源として日本でも人気を誇る。レモンの2倍、ジャガイモの7倍のビタミンCを含む。ビタミンC以外にも、皮膚や粘膜を丈夫にする働きがあるカロチン、ビタミンB2、カリウム、カルシウムも豊富。美肌効果 をはじめ、食物繊維が多いので便秘にも効果的とか。ブロッコリーは、中央に黄色い花弁の見え出していない濃緑色のものが良品。半球状になったつぼみだけでなく、茎の部分も食べられるので棄てないで。ゆで方は普通 のゆでものと同様、熱湯に一つまみ塩を落し、大きいまま入れたら、弱火にしてフタをせず十分程度ゆでる。ゆで上がったら、茎の太いものは2〜4つ割りにし、つぼみは適宜にほぐす。はい、真夜中の料理教室でした。てなわけで、野菜を食べて冬を乗りきろう。(2002.02.07)

冬の野菜といえば白菜。
今夜は、いきなり野菜の話。白菜と聞けば、鍋ものや漬けものをすぐに連想しがちだが、クセのない柔らかな味は肉や卵などとも相性がよく、どんな味つけにもよく合う。霜にあたって甘味の増す冬が旬で、栄養価も高い。白菜は、豆腐、大根とともに「養生三宝」と中国では古来より呼ばれ、風邪の予防や熱による不快感・咳を止める特効薬として愛用されている。二日酔い、膀胱炎、尿道炎、便秘、ガンの予防にも効果 があるとか。白菜は他の食材との相性ばっちり。葉が固く巻いていて、どっしり重く、株の切り口が新鮮なもので、葉先がちぢみ、黄色味を帯びたものが良品。調理法としては、外側、中側、芯の3つの部分に分け、外側は巻きもの、蒸しもの、炒めもの、煮もの、漬ものに。中側は漬ものはもちろん、煮ものにも向く。柔らかな芯は、あえものがいちばん。細かくきざんで、鰹節と醤油で召し上がるのも乙なもの。新鮮なものはサラダなどの生食で。ただし、冷え性の方は量 を控えめに。加熱すると繊維質がやわらかくなり、整腸作用もあり。固い芯の部分は栄養価が高いのでぜひどうぞ。(2002.02.06)

凄いぞ、世界の小澤征爾!
指揮者・小澤征爾さんのCDが人気だ。今年1月1日、日本人として初めて指揮したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の新年演奏会のライヴ盤「ニューイヤー・コンサート2002」が、週間CD売り上げの総合アルバムチャート(オリコン調べ)で2位 になったという。先月の19日に発売され、翌週にはポップスの人気と肩を並べ9位 となり、その次の週には5位に上昇。クラシック音楽のCDが一気に30万枚を越える人気ぶり。クラシック音楽のCDでけた違いヒットを飛ばしているこの朗報は、ふだんクラシックを敬遠しがちなテレビのワイドショーやスポーツ新聞などがこぞって取り上げている。発売元のユニバーサルミュージックによると、これまでに40万枚を出荷、勢いはまだまだ続きそうだ。
では、少しだけ中味を紹介しておこう。今年の秋からウィーン・国立歌劇場の音楽監督に就任する小澤征爾さんが、歴史あるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した記念すべき公演のライヴ録音だ。60年以上も続いてきたニューイヤー・コンサートの指揮台に日本人指揮者が立つのは史上これが初めてのこと。シュトラウス・ファミリーの麗しいワルツやポルカが感動たっぷりに楽しめる。今年が息子ヨハンの弟、ヨゼフ・シュトラウスの生誕175周年にあたる。ヨハン・シュトラウス二世の喜歌劇「こうもり」序曲、ワルツ「芸術家の生活」、ワルツ「美しく青きドナウ」など16曲が収録されている。最後のトラックには、あの「ラデッキー行進曲」も入っており、聴衆たちのリズミカルな手拍子と共に会場の楽しい雰囲気がみごとに伝わってくる。(2002.02.05)

クラシック・コンサート
音楽が好きだ。音楽は、世界共通のことばだ。特に生演奏ほど感動する。今日は関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏を藤岡幸夫さんの指揮で聴いた。こう書けば音楽通 に聞こえるかもしれないが、クラシック音楽のことは何ひとつ知らない。でも、クラシック音楽を楽しむことだけは知っているつもり。そう好きな音楽にジャンルなんてない。みなさんも普段、お茶の間にに流れているテレビCMやドラマ、映画など、さまざまなシーンでクラシック音楽を耳にしている。むかし学校で習ったべートヴェンやモーツァルト、バッハ、シューベルト、マーラーなど、偉大なる音楽家のことや曲のことなど知らなくてもいい。とにかく気軽にクラシック音楽と付き合えばいい。たぶん勝手な理由で聴かず嫌いになっている人が多いのではないだろうか。聴いて好きになれば、自然と興味がわくものだ。
京都コンサートホールの手を伸ばせば届きそうなくらい近い席(2階)で演奏を満喫した。演奏者の息遣いまでも聴こえてきそうな特別 席だ。アンダーソンの「舞踏会の美女」から、軽やかに幕があいた。指揮者のタクトにそって、ヴァイオリン奏者たちの弦を奏でる弓がきれいに揃う。ロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲、ヴォルフ・フェラリーの歌劇「マドンナの宝石」、マスカニーの歌劇「カヴァレリア・ルステヵーナ」間奏曲、リストの「ハンガリー狂詩曲第2番」と続いた。途中、指揮者体験コーナーがあって、会場から勇気ある客が手をあげたが、三人とも女性だった。個人的には14歳の女の子がいちばん絵になっていたように思う。後半からはサン・サーンスのシンフォニー第3番ハ短調作品78「オルガン付」。京都コンサートホール自慢のパイプオルガンが聴けるのである。しかも演奏は、あのオルガン奏者の土橋薫さん。身体に響きわたるようなパイプオルガンとオーケストラの醍醐味のまさしく饗宴。こうなりゃ誰もが感動せずにはおれない。よかった。生演奏ならではの大迫力で楽しめたコンサートだった。(2002.02.03)

「鬼は外、福は内」
節分とは、季節の移り変わるときという意味で、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことをいう。普通 に「節分」という場合は立春の前の日のことをさす。昔はこの日が年越しの日で、いろいろな行事をおこなう風習があり、その最も代表的な行事が「豆まき」で、現在まで広く伝わってきたもの。「豆まきは」鬼遣い(おにやらい)とか追儺(ついな)とも呼ばれ、文武天皇の慶雲3年(706)に諸国に悪病が流行ったとき、はじめて厄除けの行事としておこなわれ、平安時代には宮中の年中行事のひとつに数えられ、当時は豆まきのほかに、鬼の面 をかぶった仮装の人に桃の弓で矢を射る風習があったそうだ。
追儺の風習が伝来した頃、五穀を天地の神々へ神々へ散供したことにちなんでのこと、といい伝えられている。 豆をまくとき「鬼は外、福は内」と唱えるようになったのは、室町時代中期からといわれ、人間に凶事をもたらす鬼を追い出して邪気を払う信仰的なものから発達したといわれる。地方によっては「鬼は外」ではなく、「鬼は内」というところもある。京都では「鬼は外、福は内」。追儺式といえば吉田神社が有名だ。今夜あたり出掛けてみようかな。
下鴨神社権宮司・新木直人さんの原稿(京都新聞1月31日)によると、 (前略)「鬼は内、福は内、富は内」という地方もある。「万葉集」には、鬼を「もの」と読ませている。「源氏物語」にも「ものに憑かれる」とか「ものにおそはるる」などがある。この場合の「もの」とは、手に触れたり見たりするもの野ことではない。人間の能力を越えた優れた力、超自然的な恐ろしいほどの威力を発揮する大きな力をあらわす言葉である。すなわち、神さまのことをいっている。鬼は、年の初めに訪れてくる神さまのことであり、春をもたらす神さまであった。各地に今なおさまざまな迎春神事やお祭りが伝承されている。それが故に「鬼は内」であった。(後略)
歳の数だけ豆を食べる風習も残っている。最近では、その年の恵方を向いて、巻きずしをまるかじりするのが厄除けにつながるとされているが、私の生まれ育った田舎にはそんな風習は昔なかった。それよりも鰯の頭に柊の小枝をさして、家の門口にさげていたのを思い出す。それで鬼を追い払うといった風習があった。翌朝になると鰯はきっちりと近所の猫が食べて、柊の葉っぱが道に残っていたものだ。もちろん、その日は食卓に焼き鰯がのった。小骨が苦手な私は、食べるのが辛かった。畑で作った大豆を、大鍋で炒る。その香ばしさと美味しさはいまでもしっかり覚えている。祖母が炒り豆を半紙の上に年の数だけとってくれた。あ、そうそう幼少の頃、祖母が柊の葉を火鉢の炭火に入れてパチパチという音と燃え方で一年の天気がわかんやとよくやってくれた。家族みんなでひとつの火鉢を囲んで過ごす節分なんて、いまから思えば最高の時間を過ごしていたのだ。四季折々のしきたり、大人になってそのよさに気づくものみたいだ。「鬼は外、福は内」(2002.02.02)

祇園で「お化け」
立春。陰暦二十四気のひとつで、この日から暦の上では春となるというが、京の町では、一段と寒さ厳しく、足元から這い上がる冷気までが凍っている。「つめとおすなぁ」「ほんまに」の日々が続く。二月のことを如月(きさらぎ)というが「衣をさらに着る」の意で、春というより極寒の感じが強い。
2月の京は「お化け」で始まる。「お化け」とは、祇園の舞妓や芸妓が節分の日に変装を楽しむ行事で、今でも花街などでおこなわれているが、日常のまわりには見かけなくなった。というのは、友人の小島富佐江さんの本によると、幼少の頃、頭に髷(まげ)をつけ、かんざしを挿し、しかも洋服を着ている写 真があって、子供たちは「お化け」を楽しんでいたのを思い出すと記している。もちろん着物姿のときもあったが、いまでいうハローウィンの仮装みたいなもので、粋な大人たちが子供たちに楽しい遊びを教えていたのかもしれない。残念なことに、一般 の暮らしからは消えてしまった。いまでは花街のお姉さま方が毎年恒例のイベントとして客と一緒に盛り上がるくらい。
今朝の日経に京都大学経済学部の日置弘一郎さんを中心に「祇園でお化けを見る会」を開くという記事を発見。賛同したのは大手前大学の米山俊直学長や国立民族学博物舘の杉田繁治副館長ら15人の研究者たち。3日は、素人で花魁(おいらん)や歌舞伎役者などに扮した人を呼び、文化サロン的な会をめざし、観光行事に育てたいという。4月には「北座」が誕生するという話も載っている。明治時代の半ばまで、いまの松竹劇場「南座」の向いには四条通 を挟んで劇場「北座」があったことから「歌舞伎の発祥地・祇園をアピールしたい」と井筒八ツ橋本舗の津田佐兵衛会長。ただいま井筒祇園ビルを数億円かけて全面 改築中。行政も今年早々、電線地中化工事を終え、毛御影石で舗装された祇園・花見小路を中心に、情緒ある景観づくりに乗り出した。市民や行政がさまざまなアイデアを出し合い、祇園の雅を復活させようと頑張っている。沈滞気味の祇園に活気が戻るのは、さていつだろうか。(2002.02.01)